新田義貞公とは
新田 義貞(にった よしさだ)は、鎌倉時代末期の御家人、南北朝時代の武将。正式な名は源 義貞(みなもと の よしさだ)。 河内源氏の一門で上野国(上州)に土着した新田氏本宗家の棟梁。父は新田朝氏、母は不詳(諸説あり)。官位は正四位下左近衛中将。明治15年(1882年)8月7日贈正一位。
新田義貞は延元3年(1338年)、灯明寺畷(現 福井市新田塚町)で戦歿した。
明暦年間(1655年~58年)、その地から兜が発見され、新田義貞の兜であるとされた。
万治元年(1660年)、福井藩主・松平光通は兜が発見された場所に「新田義貞戦死此所」の碑を建て、その場所は「新田塚」と呼ばれるようになった。
明治3年(1870年)、福井知藩事・松平茂昭は新田塚に祠を建て、明治9年、「藤島神社」と名づけられて別格官幣社に列した。明治14年に福井市牧の町に遷座し、明治34年5月に現在地に再度遷座した。そのため、現在の境内は兜の発見地から南へ3kmほど離れている。